目に見えるものを求めても、、、

私ごとです。

私の母は、80代後半、父の他界後、田舎で一人暮らしをしています。

いわゆる、限界集落とよばれる町に住んでいます。

去年の10月に転倒し、顔に怪我をした頃から、認知症の症状が出はじめ、最近は身の回りのことができなくなる場面が多くなりました。 

 

子供は私と弟の2人ですが、2人とも離れた県外に住んでいますので、なかなか帰省できませんが、近所、近くの親戚が数人、集まり、今後の話し合いの場を先日、持ちました。

認知症が進むと施設に入所できなくなるかもということで、早急に入所の手続きをしました。空き待ち状態なので、当面は、ディサービス、宅配の弁当などで繋いでいくことになりました。

 

その話し合いの中で、子供がいるから幸せだとか、近所の人がいるから安心だとかの会話が飛び交っていました。

悪口みたいな話はありませんでしたが、とても、変な感じがしてモヤモヤしていました。

ほんとに、そうなのか、みんな、表面上だけで、心からそう思っているのか、ただそう思うしかないのではないか。

子供がいない人はしあわせではないのか、子供が遠くに住んでいると不幸なのか、疑問に思いました。

集まってもらい、話し合いに来てもらった人にはとても申し訳ないのですが、母の心配をしてあげ、いろいろと世話をしてあげて、そのことで褒められたい、認めてもらいたいと思っているようにも見受けられる場面も見られ、とても複雑な気持ちになりました。

子供や親戚が近くにいても、不幸な人もいますし、離れていてもしあわせな人もいます。

私の母も一人暮らしが寂しかったのか、それは、わかりませんが、、

離れて暮らしている私には、そばにいてあげられることもできません。 

だから複雑な気持ちを抱えたまま、母をお願いするしかありませんでした。

 

これからは、高齢者の一人暮らしが増えてきます。

私の母のように、子供と離れて生活しなければいけない人も多くなっています。

年金支給額も減り、生活に余裕のある人は減ってきています。

兄妹の数も減り、身内、親戚の数も同じです。

 

ラプトさんが伝えくれる御言葉に、神さまを愛し、義を行うことで救われるとあります。

人やものに恵まれているとか、ないとかでしあわせ度が決まるのではない。

死ぬまで、神さまを愛していけば、平安な心でずっと生きていけるのでないのか。

そう思わずにはいられませんでした。

人やものは、求めて得たとしても失うことがあります。

でも、神さまは、愛し続けていればいいのです。

またこうあります。

世の中のものを求めず、神さまを求めなさい。

老いた母を見て、そのことを母が理解していれば、認知症の症状が現れなかったのかもと思いました。

ほんとうに愛を持って接してくれる人ではなく、他人に認められたい人やそれによる優越感などに浸りたい人に頼らざるをえない母が少しかわいそうになりました。

理解しているのかわかりませんが、、

偽善の愛だから、ますます頭が混乱していくのかもしれません。

 

ほんとの愛を持つことが、今は難しいと思います。

でも、それができることが素晴らしいし、そのような人が増えることで世の中は変わっていくのではないかと思います。

サタンに支配された世の中では、偽善、不平、不満、高慢、猜疑心、嘘などの法に触れない罪であふれています。罪だとは考えません。

しかし、それによって苦しみ、鬱になったりもします。

嘘の情報、例え話、世間でいうところの常識で頭が誤作動を起こして、おかしくなり、精神が病んでいくとも、ラプトさんは言っておられました。

とくに、偽善はわかりにくいですが、多くの人がなんともなく行なっている罪だと思います。

 

ラプトさんの伝えてくれる御言葉の中の罪を理解し、悔い改めて義を行い、神さまを愛する生きかたに出会えれば、苦しむ人が減ってきます。そうするしかないと思う世の中になりました。

ひとりでも多くの人がラプトさんのブログ、伝えてくれる御言葉に出会い、苦しみから出てこられることを祈って

 

http://rapt-neo.com/

 

 

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