今年に入ってからのコロナ騒動での緊急事態宣言で休業、時短営業などで仕事を失ったり、収入の激減で経済的に苦しくなった人がたくさんいらっしゃると思います。
今まで、何となくでも生きてこれたり、お金、物に恵まれていることが幸せだと思ってきた人もたくさんいると思います。
それを求めて生きてきた人がほとんどだと思います。
というか、そういうように洗脳されてきました。
それをこのコロナパンデミックで失いそうになったり、失う不安に襲われている人もたくさんいるでしょう。
お金、物などだけではありません。
人に好かれ、友達や恋人がいる人が幸せで、そのため、他人に好かれたい、嫌われたくないと思わされてきました。
いい人に思われたい。
いい人に思われるイコールいい人。
いい人イコール幸せ。
だから、人の評価や評判を気にしたり、称賛を得ることが大事になり、見た目や表面だけを取り繕っておけば、とりあえず大丈夫だと思って生き、そのように生活していけばなんとかなっていました。
私もまさにそのような人生を送ってきました。
一生懸命にすることで良い人に思われたい。
そう思われることが幸せであると。
人の評価を気にしてきた生きかたでした。
それが基準でした。
今から6年前、まだラプトさんのブログ、御言葉に出会う前のことです。
私には、同じ敷地内に住んでいる主人の母と妹と近くに住んでいるもう一人の妹がいます。
いわゆる小姑で2人とも独身です。
もともと私とは相性が悪いというか、好きではないというか苦手でした。
タバコ、たしなむ程度をはるかに超えた飲酒による悪い酒癖に無意識に拒絶していたのかもしれません。
ある日、ちょっとしたことで揉め事になりました。それまでにもいろいろとあったのですが、、
親の年金をあてにしている妹にきちんと自立しないと後で困るよと言いました。
義母が私たち夫婦にお金が足らないからと何度も要求してきたからです。
なぜ年金では足らないのかをきちんと説明してほしいと言っても、してくれません。
しまいには、子供に私の悪口を言うのです。
いろいろと難癖をつけられ、出ていけと罵声を浴びせられました。
どうしてこんなに言われないといけないのか、
心が苦しくなるのは、当然ですが、それに加え首が痛くなり、頭も痛くなり、血圧が200を超えていました。
このままでは、死んでしまうかも、、、
まだ死ねない、今、私に何かあれば義母や妹が子供を育てるようになる。
そんなことになったら、子供が不幸になる。
それだけは阻止したかった。
だから、必死で義母と妹たちが何を思っているのかを考えようしました。
どうして、当たり前のことを言っているだけなのにどうして、考えれば考えるほど、考えることをやめようとしても考えてしまい、首と頭が痛くて苦しいという日が続きました。
血圧の上昇はこのストレスが原因だとわかっていたので病院に行っても治らないと思い行きませんでした。
仕事を休むわけにもいかず、仕事をしながらも、だれか助けてと心の中で叫んでいました。
3週間くらいたった、ある日、いつものように明け方に仕事をしていました。
ふと、彼女たちはあなたのこと(わたしのこと)が嫌いなんだよ、という言葉が頭の中にすっと入ってきました。えっ、誰?
田舎の道路上でしたので、もちろん誰もいません。
嫌い?そうなんだ、と思うとあれだけ痛くて苦しかった首の痛みもすっと消え頭痛もなくなりました。
あー、わたしは姑、小姑に嫌われているんだ、嫌われているなんて思いたくないですが、首、頭の痛みが嘘のようにとれたことですんなりと受けいれることができ、心もすっと楽になりました。
そう考えると今まで、理不尽に悪く言われたりしたことが理解できました。
人間は特に、身近な人や関わりの多い人に好かれたいし、関係をうまく取り繕っておきたいものです。
だから、言いたいことをできるだけ我慢してきました。
今回はごく当たり前のことを伝えたので、わかってくれるかと思いましたが、正しいかどうかではなく、わたしが嫌いだから、難癖をつけてきたのです。嫉妬心もあったと思います。
もう何を言っても無駄なので、できるだけ関わりを持たないようにしました。それが自分を守るためだと思いました。
それからも、他の場面でもそこまではひどくないですが、似たようなことがあった時に、私におかしな態度をとる人もいましたが、嫌われているんだから、放置しておけばいいと悩むこともなくなりました。
ほんとに、あの時のあの言葉は、私の悩み、苦しみを解決してくれた言葉でした。
魔法の言葉みたいでした。
それまでも友達や知り合い、紹介してもらった人生相談のような所に義母や妹のことを相談していましたが、的確なアドバイスももらえずにいて、長い間、全く解決せずに苦しんでいましたから。
そして、あの言葉は、いったい何だったんだろうと考えました。
どこから、だれから?
自分でひねり出したものではないと思いました。想像すらしていませんでしたから。
でも、すごく的確ですし、シンプルでざまざまな所で使えます。
それから、ラプトブログに出会ってからのちですが、友達とその時の話をしていました。
悟ったんだんあー、その境地になるまでは苦しかったよね、と言われました。
悟りだ。
あの言葉は神さまからだったのだと。
まだ、ラプトブログに出会えてなくて、神さまの存在すら知らなかったのに、、
とても、ありがたくて感謝しました。
御言葉の中にありました。
悟りが考えを変える。
考えが変われば人生が変わると。
私はあの言葉で心が楽になり、嫉妬されたりして嫌われても、そうなんだと思えるようになり、なんで、どうしてと思い悩むことも落ち込むこともなくなりました。
あれだけ痛かった頭、首も痛みもなくなり、血圧も元に戻りました。
別に病院に行ったとか薬を飲んだりとかしたわけではありません。
正しいことを行ったり、言ったりしても嫌われれることがあるんだと心に染み込みました。
結局、人によく思われるようとしたり、人のためと思い努力しても、人はそのように思ってくれないこともあるのですね。
良く思われようとすることは偽善です。
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
マタイによる福音書 6.1
それに、嫌われることを恐れたり、必要以上に好かれようとしてもそれは、あくまでも人を基準にしているのです。
人の基準はさまざまでころころと変わります。
それに合わせるなんて、到底無理です。
神さまの基準は常に高く、変わることはありません。
神さまは、いつも見ておられます。
神さまを愛し、御言葉に従順に従って生きることで正しく生きていけます。
正しく生きていけば、人にあれこれと言われてもそこに気をとられることもないです。
今までは、正しいことと間違ったことが一緒になった中で頭の中が混乱していました。
判断することもできませんでした。
これまで人間は悪魔崇拝をしていたイルミナティに支配されてきたので、嫉妬、妬みなどの罪がたくさん心の中に普通に入りこんでいます。
そのような人たちに辛い思いをさせられ、苦しめられてきた人間もいます。
法に触れる罪を犯しているわけではないですが、人を傷つけたり、傷つけられたりして生きてきた人々はたくさんいるでしょう。
聖書には罪が書かれています。
その中には人間が認識していない罪もあります。知らずに犯している罪があるのです。
そして、人間が罪を悔い改め、義を行なっていけば、お互いに傷つけあうこともなくなるでしょう。
そのためには、神さまの存在を知り、愛し、隣人を愛することを学び、それを行う人がひとりでも増え、やがて世界中でいっぱいになれば、荒んでいる世の中が愛に溢れる世の中に変わっていくでしょう。
その日が一日も早く来ることを祈って。